ノーブル佐々木です。

会長、高野さんと重複しますが、広報担当のような立場なので報告します。
かなりな長文ですが、田口トモロヲをイメージしながらお読みください。


■津波の境目、生死の境目

TV映像で見慣れていても、現場の状況を見て絶句せずにはいられなかった。
北上山系を抜けかけてまだ海も見えない山際から、道端にはもう流れ着いた
瓦礫があった。
海辺までは3キロくらいはあるだろうか。
その未だ見えない海辺まで瓦礫の海原が続いていた。


■不安

山崎・高野・佐々木の一行が運んでいた救援物資は、同業者や地元商店街から託された物資だった。
古着がほぼ半分で、その他には生理用品、食品、歯ブラシ、電子カーペット
にいたるまで多種に及んでいた。

皆、想いのこもった品々だった。

しかし、不安がひとつあった。
震災11日目ともなると報道で伝えられたところでは、続々救援物資も続々届いて来ている。
一般車両の立ち入り制限も解除されている。
はたしてこの物資が被災者の役に立つのだろうか。
この話題になったとき、ほんの一瞬の沈黙の後、誰かが言った。

「無駄なはずはないよ。」

沈みかけた気持ちが僅かに浮力を得た瞬間だった。
そして、みな口々に「そうだ、無駄なはずはない。」と自分に言い聞かせるように口にしていた。
そうして、直前まで揺れ動く気持ちを押さえつけて早朝5時半に江刺を出立した。


■住田町・再会

一行は途中、住田町で大船渡で被災し妻の実家に身を寄せていた佐々木健さんと再会することができた。
「物資? 何も要らないなぁ。」と前日電話では言われていた。
いくらあっても困ることはないはずなのに、と不思議に思った。

結局、30分ほど立ち話をした後、無理やり外用薬を一本手に握らせて別れを惜しみながらその場を後にした。
更にその直後、ガソリンスタンドで給油待ちの列の中にいた現役青年部幹事の菅原由香子さんとも再会し喜びを分かち合った。

2つの再会で、気持ちに更に大きな浮力がかかってくるのを実感した。
それでも積荷の行く末を案ぜずにはいられない。
無駄にできない想いを乗せて陸前高田まで残すところ16キロの地点まで来ていた。


■陸前高田

とうとう現地に入ったところで遭遇した状況に一同は絶句した。
目に涙がにじんできた。
その辺は、津波の襲来した境目で、その境目が生死の境目でもあり、健在した家屋と半壊した家屋が混在していた。
すると、とある家の前に5,6人の男たちががたむろして雑談をしていた。
皆、高齢者だった。
丁度いい、この物資の受け取り先を教えてもらえるかもしれない。
そう思った一行は車を止め声をかけた。

「ちょうど、そのマンホールまで津波が来たんだよ。」

一人のご老人が数メートル先の道路の真ん中にあるマンホールを指を刺しながら言った。
彼も家屋ごと一切合財津波に流され、着の身着のままでこの家に転がり込んでお世話になっていると言う。
それは丁度良い、とばかりに「何か必要なものでもあれば持っていってください」と申し出た。
しかし、ご老人は言った。

「それは受け取れない。」

ここでも受け取ってもらえないのか?
なぜ受け取ってもらえない?
そう思う一行に彼は続けた。

「支援物資は皆のものだから、私一人だけが貰うわけには行かないんだ。」

それを聞いた3人は人目もはばからず号泣した。
溢れ出す涙を抑えることができなかった。
そういうことだったのか、そういうことだったのか・・・。
どんな状況でも他人を思いやる気持ちを失ってはいけない。
確かにそうだろう。
しかし、同じ立場になったとき、同じ言葉が自分の口から出るだろうか?


■給食センター

深い感慨とあふれる涙とは裏腹に、一行はまたしても荷物の受け取り先を失い喪失感を感じていた。
すると老人が、「1キロ弱先の給食センターで救援物資を集めているから、そこに行きなさい」と言った。
迷惑がられるのではないか、と思っている一行は二の足を踏んでいた。

それを見て老人は、同乗して道案内すると言ってきた。
いや、道が分からないということではないんだが、と思いながらも、「物資はみんなのもの」という彼に断る口実も思いつかない。
結局、彼を乗せて給食センターに向かう事になった。

到着してみるとそこは物資の搬送に最適の施設で、緊急車両、自衛隊、一般トラックなどが数台待機していた。

「すみません、救援物資持ってきたんですが〜」

と恐る恐る搬入口にいた人に聞いてみた。
するとすぐさま責任者が出てきて、積荷は何ですか、と聞いてきた。
一通り内容を説明し、せめて食料だけでも置いていきましょうか、と言ってみた。
古着は敬遠されると思ったからだ。

「いえ、皆さんの善意で送られてきたものは、すべて大切に預からせてもらいます。」


責任者は断言した。
被災者に直接手渡し、涙ながらに感謝されることを半ば期待していた一行にとっては少々拍子抜けだったが、これまでの経緯から言って受け取ってもらえない可能性が高い。
結局そこで全ての積荷を下ろすことに決めた。
到着してまだ30分程ほどしかたっていなかった。
気がつくと、いつの間にか案内役を買って出た老人は、名乗る事もなく傍らから消えていた。
かっこよすぎる、と一同思った。


■高田松原

このまま帰るのも何か後ろ髪を引かれる想いもあり、すぐに帰途につく気にはなれなかった。
結局、被災した高田市内を視察し最終目的地の広田半島を回って帰ることにした。
45号線をまっすぐ行き街中に入ってみると意外にもかなり深く入ることができた。
ただ市街地といっても大半が瓦礫でわずかばかり半壊の建物があるだけだった。

MAIYAとかNTTの支店などの鉄筋の建物は、しっかりとそこに残ってはいるのだが、片手で持てないような太い配線などが、抜けた天井やはがれた壁から所狭しとちらかって、床では足らず窓からも外に垂れ下がっている。
それがまるで内臓のように見え、何かをこらえるように皆押し黙って傍らを通り過ぎた。
道路は通れると入っても、所々排除できない大きな残骸で狭くなっており、不注意でパンクなどすれば身動きが取れなくなる危険もあった。

そうしてとうとう海辺にたどり着いた。
高田松原だ。
完全に消失。
防波堤が流され残された水門が、まるで厳島神社の大鳥居のように海の中に立っている。
身をていしても街を守りきれなかった、そんな無念さが伝わってくるようだ。

車を止め一行は辺りを歩いて見て回ることにした。
辺りは、市街地に比べれば瓦礫が少なく、砂地ですぐに砂浜だったことが分った。
水門から今立っている水辺まで50mくらいあるだろうか。
地盤沈下のせいで海岸線は後退していた。
有名な高田松原は報道ですでに消失したことは知っていたので、それほど驚く事はなかったが、今では砂浜の様子でしかその場所を確認することができない。
そのうち、「高田松原跡」と墓標のように記念碑が建つのかもしれない。

そんなことを思いながら辺りを歩いているうちに、最初は絶句し涙したはずの風景に、どんどん無感情になっていくのを感じでいた。


■広田半島

そんな高田松原を後にし、一行は最終目的地だった広田半島を目指した。
45号線は、市内の大きな橋で大きな瓦礫がありそこで通行止めになっていたので、一旦戻り大船渡方面に向かう県道に入った。
途中迷いながらもアップルロードと呼ばれる道路に乗り、広田半島に進路が向いた。

広田半島は中ほどがくびれた低地で、地図では太平洋にボーリングのピンのように張り出した形をしている。
そのくびれた部分が津波で分断され、潮が引いても瓦礫の山で移動不能になり数日前まで岬は孤立していた。

その道路は、その低地の中央を走っていて、建物が健在なときは見えなかったであろう両岸の海辺が、今は左右に首を回すだけで見ることができる。
人の痕跡が消えて見通しが良くなるというのも、受け入れがたい現実を言葉巧みに示されているようで、素直に見ることはできない。
岬に入ると、そこは高台になっていて難を逃れた家屋も多く見えたが、ライフラインの復旧にはかなり時間がかかると思われた。

岬を半周ほどして見ると、外海に面してる方は湾内に比べ被害は軽微なのが見て取れた。
さらに外海から陰になっている入り江は、ほとんど被害がないようにすら見えるところもあった。

岬の先端付近に差し掛かったところで、自衛隊の車両が道を塞いでいた。
この辺が潮時か、と感じた。
荷台が空っぽのトラックだったので、物見遊山で不謹慎な風体に見られるのは本意ではない。
時計を見ると12時半を回っていた。
「そろそろ引き返しましょうか。」
と誰かが言った。


■終わり

結局、そのまま帰途についた一行が江刺に着いたのは1時半を過ぎたころだった。
早朝5時半ごろに出発して約8時間の行程だった。
出かけるときに降っていた小雨は、高田に入るときにはすでに上がっていたが、とうとう最後まで青空は姿を見せてはくれなかった。
それはそのまま一行の気持ちを表しているようだった。

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いろいろと思い悩むこともありたましが、行って来て本当に良かったと心から言えることに、まず感謝いたします。
そして、あのご老人の言葉を聴けただけで十分に苦労は報われたと言う思いでした。
困難な状況で何が大切で、何が必用なのか、少し分かったような気がします。
そして初志貫徹の言葉の意味を身をもって実感した、そんな2日間でした。
最後に物資を供給してくれた盛岡支部の理事の方々、奥州地区の方々、内丸櫻山商店街の方々、上田商店街の方々、お客様方に深く感謝いたします。

ありがとうございました。
長文長々と失礼しました。