来た!「桜山神社参道の将来像ついて」
泣きが入れば止まらないノーブル佐々木です。

昭和12年から73年の時を経て、今月(平成22年10月)盛岡市は「桜山神社参道の将来像ついて」と題した策定案を発表した。
昨日(10月13日)の内丸第二町内会が主催した説明会は、予想を上回る町内外100名ほどが参加する規模となり、同時に県内在住すべての放送局が取材に来るという注目の場にもなった。
これをネタにしないわけにはイカの○玉。

ということですよ。


■事の経緯

その時配布された資料がこれ→
ココ

13ページの資料であるが、紙質が悪いのでスキャンニングでは、プツプツが目立つ。
しかも内容的にアバタに見てもエクボには見えない。
アバタをいちいち説明するのは、メンタル的に負荷が大きいので詳細は資料を参照されたい。
しかし、それではオラホの好感度が下がるので簡単に経緯を説明しよう。
結構人のうわさを気にするタイプ炸裂っ。

【桜山神社界隈のここまでの経緯】

1.昭和12年(1937年)
国がこの界隈を史跡指定する。

2.終戦後
大陸からの引揚者が神社境内にバラックなどを建てて住み始める。これがこの町内の始まり。

3.昭和29年(1954年)
「中の橋・大通り線」の整備に伴い仮移設が始まる。
この通りは、今の東北銀行本店からサンビルまでの通り、つまり「東大通り」のこと。

4.昭和31年(1956年)都市計画が決まる。
この時にこの界隈は将来は緑地(すなわち公園緑地)となることが決まった。
これの意味するところは、地目(土地の主たる用途による区分。不動産登記法では次の二一種類が定められている。)が「緑地」となり、建物の建設はNGになるということ。
簡単にいえば、「現状は仕方ないけど、取り壊したらもう建てちゃだめだよ。」ってこと。
別な見方では、「どいて、て言ったらどいてね!」ってことでもある。


ここまでは資料から、ここからはオラホの伝聞と記憶によるものになる。


5.昭和34年区画整理
ほぼ現在の状態。
この間の説明会で元住民の方の証言によると、この時にお堀周辺の土塁が撤去されたらしい。
町民、取りあえず安堵のため息。

6.昭和44年(45年?)
岩手国体を控え、市街地の景観を改善するという名目で桜山神社からサンビルまでの桟橋(現在は歩道となっている)の店舗が撤去される。
町民、次はオラホか!と震えあがる。

7.平成9年(1997年)
桜山界隈を将来駐車場にする計画が決定(したらしい)。
町民、恐怖に怯えつつも過去30年具体的な市の動きがなかったため静観

8.平成20年(2008年)4月2日
時節に合わないということで市は上の計画を破棄。
これをマスコミが大々的に報道
町民、いよいよこの地が安住の地となるのか!と舞い上がる。

9.同年(10月だっけ?)←春だった?
市は、報道に動揺し急きょ説明会を開催。
「皆さんと協議して・・・」とか言いつつ、1年間の調査期間を経て何らかの策定案を出すことを明言する。
町民、多少を不安を抱えつつも、期待感が勝りこの言葉を信じることにする。

10.平成22年(2010年)10月1日
「桜山神社参道も将来像ついて」と題した策定案を発表。(というかマスコミが大々的に報道)
勘定所“”建物とお堀の土塁を何となく再現する、という案と引き換えに、現状を改善する改修工事を制限付きで認可する、というありがたい御沙汰をお示しになる。
町民、期待を裏切られた計画案に度肝を抜かれる。

11.平成22年(2010年)10月13日
内丸第2町内会主催で市の職員を招いて説明会を開く。
町民、想いのたけをぶつける。

今、丁度ここ。



■青天の霹靂

町内会長の川村氏は、説明会終わりの言葉として市の策定案を「青天の霹靂」と形容した。
この言葉は、市の唐突な発表、という意味合いで報道されたが、それは違う。
先に示したように、策定案の発表自体は事前に決まっていたものだからだ。
では、氏は何をもって「青天の霹靂」と表したのか。

それは、事前の協議も連絡もなく一方的に策定案が示されたことを指している。
来るのは知っていたが、まさか寝ている間に耳に水を入れられるなんて。聞いてないよぉ〜。
と、ダチョウ倶楽部なら突っ込んでるところだ、というわけだ。

しかも、この1年半、市と町内は(と言うより市街地全体は)良い関係を築いてきた。
「盛岡市中心市街地活性化基本計画」(→
ココ)という名のもとに、これまでにない支援を市から受けてきていたのだ。

これまでの盛岡は、盛南開発という旗印に、市の外辺地域を開発してきた。
これは、市街地の利便性を郊外域にまで拡大する、という効果をここ20年間で実現した。
それは実際、郊外に寝床を構えるオラホも実感してきた。
しかし、それは同時に市街地の経済的地盤沈下を起こす諸刃の剣でもあった。

全国に目を向ければ、シャッター街が問題視されている地域はいくらでもある。
実感はないが、盛岡はまだよい方とされているらしい。
それでも時間の問題なのは明らか。
国がそう言った自治体に補助金を出すという方策を打ち出したのは、一昨年のこと。
開発の遅れていた(つまり市街地がシャッター街になる前に)盛岡市がこれに取り組むことになったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。

そしてもう一つ幸運だったのは、この桜山神社界隈が昭和の風情を色濃く残すことになったのも、先に述べた緑地指定による建築・改築規制によるものだったこともある。


■昭和の風情

昭和の風情なるものの定義は定かでないが、安普請(やすぶしん)の雑然とした生活感が丸出しの趣、とオラホは定義しよう。
これは、この町内そのものの形容句だと言える。
20年前、いや10年前まで、これは町内の改善すべき問題であり、覆い隠さねばならない恥部だった。
中央通り側にある、今や巨木となったヒマヤラやシーダは、県庁からこの町内を見えないようにするために植樹した、と噂されるほど景観を害していると言われた時代が長く続いた。(真偽は不明)

それがいつからか、カメラを持った人々が時折出没するようになったころから様相が変わる。
彼らまたは彼女らは、自然美の漂う池の端や歴史を感じさせる釣り鐘堂を撮影するのか、と思いきや2mもない、バケツやボイラー、ガスボンベが置かれている薄暗い路地裏を撮影しているではないか。
ある時など、さんさ踊りの雑踏で外国人が、そんな路地裏にカメラを向けているのを見かけたときがあった。
よほど奇異の面持ちで見ていたのだろう。
オラホに気付いたその白人男性は、こともあろうにウィンクを飛ばしやがった。

「畜生、碧眼パツキンはウィンクが似合うぜ!」

と不覚にも惚れてしまいそうになってしまったじゃないか。
10年20年は流行遅れと揶揄されるが、50年以上も経つと「レトロ」と称されることに気付いた瞬間だったかもしれない。
気がつくと、全国に昭和風情を謳い文句にした店や街並みがいろいろなメディアで紹介されている。
ある日学校に、父親のラッパのジーンズを履いてったら人気者になっちゃったぁ〜、みたいな感じなのかも。(それはナイナイ)




くぅ〜、1日でまとめられなかったか。
全体の半分も行ってないかも。
よし、明日も打ち込むぞ、ということで、続く。